中学受験 社会

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歴史分野〜よく出る〜 

 

<明治維新>

次の文を読んで、後の問いに答えなさい。

尊皇攘夷は幕末の特色といえるでしょう。@その動きが討幕運動に変わって王政復古が行われました。A鎌倉幕府から長らく続いた武士の世の中はこうして終わるわけです。明治政府は薩摩や長州の武士が中心になって建てた新政権です。公議の名によって幕府を倒したわけですから、B五箇条の御誓文のはじめにそれが掲げられました。

 

(問1)下線部@について、討幕運動に至る前に時の大老・井伊直弼はきびしい取りしまりをしました。そのとき人々が「取りしまられた理由」の説明として適切なものは次のどれですか。1つを選び、記号で答えなさい。

 ア、キリスト教の影響がおよばないように、鎖国を始めようとしたから。

 イ、朝廷の許しを得ずに、外国と条約を結ぼうとしたから。

 ウ、朝廷を倒して、開国しようとしたから。

 エ、外国船を打ち払うことに反対し、幕府を倒そうとしたから。

 オ、開国に反対して、幕府を批判したから。

 

(問2)下線部Aの「武士の世の中」は、おおよそ何年ほど続いたのでしょうか。次の中から最も近いものを選び、記号で答えなさい。

ア、約250年       イ、約400年        ウ、約550年

エ、約700年       オ、約850年

 

(問3)下線部Bについて「五箇条の御誓文」の内容に合うものは、次のどれですか。正しいものを1つ選び、記号で答えなさい。

 ア、政治のことは広く議会を開いて、よく議論して取り決める。

 イ、封建道徳をよくまもること。

 ウ、徒党や強訴などを禁止する。

 エ、キリスト教を禁止し、外国との交流を禁止する。

 オ、本国からの脱走を禁止する。

<駒場東邦中学校の入試問題より>

 

(問1)井伊直弼は日米修好通商条約を調印した人物です。

この後、開国に反対した人々が井伊直弼を暗殺した桜田門外の変が起こるのです。

答えは、オです。

(問2)鎌倉幕府は1192年に始まったのは覚えているはずです。

明治維新が1868年なので、1868−1192=676

答えは、エです。

(問3)五箇条の御誓文は、明治天皇が神に誓った五つの条文からなります。

内容は、会議を開いて、日本国民の心をひとつにしようというものです。

答えは、アです。

 

 

<鎌倉時代と室町時代>

(問1)1232年に貞永式目が制定した人物は誰ですか。漢字で答えなさい。

(問2)1274年に文永の役の際に幕府の執権であった人物は誰ですか。漢字で答えなさい。

(問3)1333年に鎌倉幕府が滅びますが、幕府を倒そうとした天皇は誰ですか。その天皇の名を漢字で答えなさい。

(問4)1392年に南北朝の統一がなされますが、この統一をなしとげた室町幕府の将軍は誰ですか。漢字で答えなさい。

<聖光学院中学校の入試問題より>

(問1)貞永式目(御成敗式目ともいいます)とは武士政権のために制定された法令です。鎌倉幕府第三代執権が中心となって編集しました。

答えは、北条泰時です。 

(問2)文永の役と1281年の弘安の役の時の執権は必ず覚えておくべき人物です。

答えは、北条時宗です。

(問3)即位すると天皇を中心とする政治体制の再構築を企て、後に建武の親政を始めた有名な天皇です。

答えは、後醍醐天皇です。

(問4)室町幕府の有名な三代将軍です。

金閣寺や北山文化とセットで覚えておきましょう。

答えは、足利義満です。

 

 

<日本の中世の文化>

各時代の文化の特色について述べた次のA・Bの文を読んで、あとの問いに答えなさい。

A、仏教をもとにしたこの時代の文化は、都のあった地方の名にちなんで(a)文化と呼ばれる。法隆寺の建築とそこにある仏像などに、その特色が表されている。

B、日本の風土や生活に合った文化がおこった。貴族の服装も、それまでの中国風のものから日本独特のものに変わった。かな文字が発明されたことから、細やかな感情が文章で表現しやすくなり、多くのすぐれた文学作品が生まれた。

C、武士の気風に合った力強い文化が栄え、新しい様式の建築や彫刻がつくられた。文学では多くの軍記物が書かれたが、そのうちの代表作が『平家物語』である。

(問1)Aの文中の(a)にあてはまる語句を答えなさい。

(問2)Bの文中の下線部について、このような変化がおきた最も大きな要因は何か。20字以内で書きなさい。

(問3)Cの文中の下線部について、下の写真の彫刻が置かれている建築物を次から1つ選び、記号で答えなさい。

 

 

ア、唐招提寺金堂           イ、中尊寺金色堂

ウ、東大寺南大門           エ、円覚寺舎利殿

 

<専修大学松戸中学校の入試問題より>

 

(問1)法隆寺が建てられた時代なので簡単ですね。答えは、飛鳥です。

(問2)中国風のものが日本風に変わったので、これは国風文化と呼ばれます。10世紀から11世紀頃のことです。その前の894年(「白紙に戻す」と覚えましょう)に、遣唐使が廃止されたことを思い出しましょう。答えは、「遣唐使の派遣をやめたこと。」です。

(問3)アの唐招提寺金堂には乾漆廬舎那仏坐像がありますが、覚える必要はありません。イの中尊寺金色堂には阿弥陀三尊像があります。(2011年、世界文化遺産の一部に)エの円覚寺舎利殿は、鎌倉にある鎌倉時代のお寺。答えは、ウです。

<安土桃山時代と江戸時代>

(問1)織田信長が天下統一を進めるための拠点とした城の名称を答えなさい。

(問2)刀狩りの説明として、正しいものを次から1つ選び、記号で答えなさい。

ア、豊臣秀吉は大阪城をつくるための材料に使うなどの理由をつけて、農民から武器などを集めた。

イ、豊臣秀吉は朝鮮に送る大軍に備えるために、農民から武器などを集めた。

ウ、豊臣秀吉は農民による一揆を起こさせないために、農民から武器などを集めた。

エ、豊臣秀吉は軍事力が強大であることを示すために、農民から武器などを集めた。

 

(問3)参勤交代の制度の目的とはどのようなことであったのか、説明しなさい。

 

(問4)江戸時代に幕府は改革を行った。以下の人物を、改革を進めた順番に並べかえなさい。

ア、松平定信   イ、新井白石   ウ、徳川吉宗   エ、水野忠邦

<獨協埼玉中学校の入試問題より>

 

(問1)基本問題です。答えは、安土城です。

(問2)農民出身の秀吉は、農民の力を恐れていました。答えは、ウです。

(問3)やや難しいですが、答えられるようにしておきたい問題です。

答えは、「多くの出費によって、藩の経済力を弱め、幕府に反抗する力をなくさせるため。」です。

(問4)江戸時代の改革は、よく出題されるのでここで整理しましょう。

松平定信は、1790年ごろに寛政の改革を行いました。

新井白石は、1710年ごろに正徳の治を行いました。

徳川吉宗は、1730年ごろに享保の改革を行いました。

水野忠邦は、1840年ごろに天保の改革を行いました。

答えは、イ→ウ→ア→エです。

 

 

<朝鮮近代史>

以下の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。

日本は朝鮮の人々のはげしい抵抗をおさえて、(@)年ついに韓国併合をおこないました。植民地とされた朝鮮(韓国)では多くの人々が民族としてのほこりをうばわれていきました。韓国を植民地とした後、日本はさらに中国東北部へも勢力を広げようと、1931年(A)事変をおこしてここを占領、翌年(A)国を建国し、日本がその実権をにぎりました。そしてこれらの支配は(B)年に太平洋戦争が終結するまで続きました。

 

(1)@とBにあてはまる正しい年号の組み合わせを1つ選びなさい。

ア、@1904年 B1939年    イ、@1904年 B1941年

ウ、@1910年 B1943年    エ、@1910年 B1945年

(2)下線部の「韓国併合」の後、日本がおこなったことのうち、あてはまらない文章を1つ選びなさい。

ア、陸奥宗光が初代の責任者としてきびしい支配をおこないました。

イ、韓国の人々を強制的に日本に連れてきて、労働者として働かせました。

ウ、土地整理の名目で多くの人々の土地を取り上げ、日本人のものにしました。

エ、学校では強制的に日本語を学ばせました。

(3)文中のAにはいずれも同じ語句が入ります。正しい語句を漢字2文字で答えなさい。

<青山学院中等部の入試問題より>

 

 

(1)太平洋戦争終結の年はあまりにも有名ですね。Bが1945年なので、答えはすぐに分かるはずです。韓国併合が1910年というのも覚えておくべき年です。答えは、エです。

(2)陸奥宗光は明治時代に外務大臣を務め不平等条約の「治外法権の撤廃」を成し遂げた政治家です。答えは、アです。

(3)これは必ず覚えておかなければなりません。

答えは、満州です。ちなみに、満州事変の発端は、奉天近郊で起こった「柳条湖事件」です。

 

<20世紀前半の日本>

次のグラフは20世紀前半の日本の国家財政に占める軍事費の割合を示しています。a〜dの時期の説明についてそれぞれ正しいものを選び、番号で答えなさい。

 

 

(1)aの時期について

 1、日英同盟のおかげで、日本は経済や軍事の面で余裕を持ってロシアと戦うことができた。

 2、戦争の終了後、賠償金を手に入れることができたため、日本は財政に余裕ができた。

 3、日英同盟はあったが、日本はロシアと苦しい戦いを続けた。

 

(2)bの時期について

 1、前半の時期、アジアにあったドイツ領を占領するなど、戦争には関わっていた。

 2、後半の時期、軍事費の割合は低下したが、世界的に見ると、軍事拡大が行われていた。

 3、前半の時期、日本はヨーロッパへ大規模に出兵し、本格的に戦った。

 

(3)cの時期について

 1、日英同盟が強化され、再び軍備を拡大していった。

 2、国際連盟の一員として、その発展に力を尽くした。

 3、国際連盟から脱退した後、国際的に孤立した日本は再び軍備を増強した。

 

(4)dの時期について

 1、軍需産業の発展にともない、国民全体の生活水準は大きく向上した。

 2、軍需産業に重点がおかれたため、生活必需品が不足し、生活が苦しくなった。

 3、後半の時期、戦争によって工業生産は、大きな被害を受けたが、食糧生産には影響はなかった。

<慶應義塾湘南藤沢中等部の入試問題より> 

 

(1)1、グラフを見るかぎり、「日本は経済や軍事の面で余裕を持って」はいません。2、日露戦争では、「賠償金を手に入れることができ」ませんでした。答えは、3です。

(2)2、ワシントン海軍軍縮会議などで、「世界的に見ると、軍備」縮小が行われていました。3、日本が「大規模に出兵し」たのは、ヨーロッパではなくシベリアです。答えは、1です。

(3)1、「日英同盟」は1923年にすでに失効しています。2、日本は1933年に「国際連盟」からの脱退を表明しています。答えは、3です。

(4)1、太平洋戦争時の「国民全体の生活水準」は、極めて苦しいものでした。3、戦争の後半の時期は、食料不足が大きな問題となりました。答えは、2です。

 

 

 

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